2014年05月31日
第45回ざぶとん寄席
第45回 ざぶとん寄席
平成26年5月23日(金)19時開演 21時終演
上山田文化会館 特設ステージ

新緑は眩しく、涼風が心地よい季節となりました。
本日のご来場は、125名様。
遠くは、佐久市からの親子連れのお客様もいらっしゃいました。
(抽選会で親子揃って色紙があたり、ご満悦)
開口一番は、古今亭きょう介さん。
「たらちね」

この6月より、二つ目に昇進し、「志ん松」さんと名乗るそうです。
基本に忠実な、しっかりした噺でした。
続いて、三遊亭吉窓師匠の登場。
高座にあがるだけで、会場がぱっと明るくなります。
これからの季節は、大変過ごしやすいそうで、まくらで大いに笑わせてから 「阿武松」

大飯ぐらいで破門されるものの、宿屋の主人に才能を見いだされ、六代目横綱を張る阿武松緑之助の出世話。
時節は五月場所の真っ最中、江戸時代の場所は10日間だったそうで、「一年を十日で暮らすいい男」という川柳があります。
宿屋の主人橘屋善兵衛は、10日の相撲を12日楽しむほど、相撲好きという話がでてきます。
興行の前日に櫓が張られるのを見て、いよいよ相撲が始まると心を躍らせ、興行が終わった翌日に片付けを見ながら、よい相撲だったと振り返る。
場所の前後2日を加え、都合12日間楽しむ、これが本当の贔屓なんでしょうね。
仲入り後のお楽しみ抽選会をはさんで、
けだるそうな雰囲気を漂わせ、柳家喜多八師匠が登場。
吉窓師匠の「明るさ」を意識したのでしょうか、
演目は「やかんなめ」

持病の癪を治すのに、やかんを舐めるというご夫人。
外出先で、癪に襲われ、通りかかったお侍のやかん頭を舐めるという滑稽な噺。
やかん頭を舐めるご夫人、必死に堪えるサムライ。
病弱とはとても思えない熱演ぶりで、会場は笑いの渦に巻き込まれる。
このギャップが喜多八師匠の魅力です。

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平成26年5月23日(金)19時開演 21時終演
上山田文化会館 特設ステージ

新緑は眩しく、涼風が心地よい季節となりました。
本日のご来場は、125名様。
遠くは、佐久市からの親子連れのお客様もいらっしゃいました。
(抽選会で親子揃って色紙があたり、ご満悦)
開口一番は、古今亭きょう介さん。
「たらちね」
この6月より、二つ目に昇進し、「志ん松」さんと名乗るそうです。
基本に忠実な、しっかりした噺でした。
続いて、三遊亭吉窓師匠の登場。
高座にあがるだけで、会場がぱっと明るくなります。
これからの季節は、大変過ごしやすいそうで、まくらで大いに笑わせてから 「阿武松」

大飯ぐらいで破門されるものの、宿屋の主人に才能を見いだされ、六代目横綱を張る阿武松緑之助の出世話。
時節は五月場所の真っ最中、江戸時代の場所は10日間だったそうで、「一年を十日で暮らすいい男」という川柳があります。
宿屋の主人橘屋善兵衛は、10日の相撲を12日楽しむほど、相撲好きという話がでてきます。
興行の前日に櫓が張られるのを見て、いよいよ相撲が始まると心を躍らせ、興行が終わった翌日に片付けを見ながら、よい相撲だったと振り返る。
場所の前後2日を加え、都合12日間楽しむ、これが本当の贔屓なんでしょうね。
仲入り後のお楽しみ抽選会をはさんで、
けだるそうな雰囲気を漂わせ、柳家喜多八師匠が登場。
吉窓師匠の「明るさ」を意識したのでしょうか、
演目は「やかんなめ」
持病の癪を治すのに、やかんを舐めるというご夫人。
外出先で、癪に襲われ、通りかかったお侍のやかん頭を舐めるという滑稽な噺。
やかん頭を舐めるご夫人、必死に堪えるサムライ。
病弱とはとても思えない熱演ぶりで、会場は笑いの渦に巻き込まれる。
このギャップが喜多八師匠の魅力です。

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2013年12月08日
第44回ざぶとん寄席
平成25年11月15日 金曜日 19時開演 21時終演
上山田文化会館特設舞台

開演前に時雨が流れ、秋の深まりを感じます。
ステージの上にござを敷いた特設会場には、座布団がありがたい季節になりました。
本日のご来場は、112名様。ありがとうございます。
(ざぶとん寄席サイトのサーバーが不調なので、ここに仮アップします)
三遊亭わん丈「子ほめ」

古今亭文菊「替わり目」

柳家小満ん「寝床」

開口一番は、三遊亭わん丈さん。
「子ほめ」

滋賀県出身の現存する唯一の噺家だそうです。
三遊亭円丈師匠のお弟子さん。
堂々とした語り口で、お客様のつかみ方もうまい。
聞くところによると、九州では名の知れたミュージシャンだったとか。
ステージより高座を選んだわけですが、ざぶとん寄席はステージの上に高座があるんで、どちらも適いましたね。
続いて、古今亭文菊師匠。
「替わり目」

当寄席には二回目のお出ましです。
真打ち昇進前に、二つ目、古今亭菊六として、お出ましいただいています。
その節の一席は、「転宅」でした。
この二つ目は、どこまで伸びて行くんだろうと、逸材ぶりを垣間見る思いがいたしました。
その後、二十数人抜きで真打ちに昇進し、師匠文菊となっての来場となりました。
どこかに品があり、若旦那か、歌舞伎役者のような風貌は、真打ちとなり、さらに落着きが加わったようです。
酒飲みの所作、物売りの声、都々逸、新内節と、目に浮かぶような情景描写。
寄席が終わってから、お客様の多くは、おでんで熱燗を一杯召し上がりたくなったに違いありません。
この噺は、主人が酔って、おでんを買いに出て居なくなった女房を褒めちぎると、実は女房殿が出かけずにそれを聞いていたというところで、落ちとなることが多いのですが、この日は最後まで聞かせてくれました。
「替わり目」の題目が、なるほどと腑に落ちる、落ちでした。
仲入りのお楽しみ抽選会をはさんで、柳家小満ん師匠。
「寝床」

小満ん師匠が高座にあがると、何処からか風が吹いてきます。
それは江戸の風。
まくらは振らずに、すっと「寝床」に入ります。
そこはもう、商家の一角。
旦那と番頭が、義太夫の会の客集めの話をしています。
語り口は自然体、声のトーンは低く、前の言葉が終わらない間に次の言葉がかぶさってくるような感じが、絶妙なテンポを生み出しています。
明らかに文菊師匠のリズム感とは違います。
文菊師匠が、現代(いま)の落語を現しているとしたら、小満ん師匠には、明治・大正、昭和と連綿と受け継がれてきた、伝統の落語が流れていたような気がします。
或る噺家さんが、小満ん師匠は本当に凄いと、絶讃していました。



真の落語家も唸らせる、子満ん師匠の芸。
そして、抜擢真打ち、文菊師匠の粋。
平成の落語と昭和の落語の競演とでも言いましょうか、聞きごたえたっぷりのざぶとん寄席でした。

上山田文化会館特設舞台

開演前に時雨が流れ、秋の深まりを感じます。
ステージの上にござを敷いた特設会場には、座布団がありがたい季節になりました。
本日のご来場は、112名様。ありがとうございます。
(ざぶとん寄席サイトのサーバーが不調なので、ここに仮アップします)
三遊亭わん丈「子ほめ」

古今亭文菊「替わり目」

柳家小満ん「寝床」

開口一番は、三遊亭わん丈さん。
「子ほめ」

滋賀県出身の現存する唯一の噺家だそうです。
三遊亭円丈師匠のお弟子さん。
堂々とした語り口で、お客様のつかみ方もうまい。
聞くところによると、九州では名の知れたミュージシャンだったとか。
ステージより高座を選んだわけですが、ざぶとん寄席はステージの上に高座があるんで、どちらも適いましたね。
続いて、古今亭文菊師匠。
「替わり目」

当寄席には二回目のお出ましです。
真打ち昇進前に、二つ目、古今亭菊六として、お出ましいただいています。
その節の一席は、「転宅」でした。
この二つ目は、どこまで伸びて行くんだろうと、逸材ぶりを垣間見る思いがいたしました。
その後、二十数人抜きで真打ちに昇進し、師匠文菊となっての来場となりました。
どこかに品があり、若旦那か、歌舞伎役者のような風貌は、真打ちとなり、さらに落着きが加わったようです。
酒飲みの所作、物売りの声、都々逸、新内節と、目に浮かぶような情景描写。
寄席が終わってから、お客様の多くは、おでんで熱燗を一杯召し上がりたくなったに違いありません。
この噺は、主人が酔って、おでんを買いに出て居なくなった女房を褒めちぎると、実は女房殿が出かけずにそれを聞いていたというところで、落ちとなることが多いのですが、この日は最後まで聞かせてくれました。
「替わり目」の題目が、なるほどと腑に落ちる、落ちでした。
仲入りのお楽しみ抽選会をはさんで、柳家小満ん師匠。
「寝床」

小満ん師匠が高座にあがると、何処からか風が吹いてきます。
それは江戸の風。
まくらは振らずに、すっと「寝床」に入ります。
そこはもう、商家の一角。
旦那と番頭が、義太夫の会の客集めの話をしています。
語り口は自然体、声のトーンは低く、前の言葉が終わらない間に次の言葉がかぶさってくるような感じが、絶妙なテンポを生み出しています。
明らかに文菊師匠のリズム感とは違います。
文菊師匠が、現代(いま)の落語を現しているとしたら、小満ん師匠には、明治・大正、昭和と連綿と受け継がれてきた、伝統の落語が流れていたような気がします。
或る噺家さんが、小満ん師匠は本当に凄いと、絶讃していました。



真の落語家も唸らせる、子満ん師匠の芸。
そして、抜擢真打ち、文菊師匠の粋。
平成の落語と昭和の落語の競演とでも言いましょうか、聞きごたえたっぷりのざぶとん寄席でした。

2011年12月31日
311 ともに希望あるあしたへ
「長楽」。長く楽しい時間がボトルのなかで熟成していく。

今年、仕込んだワインのラベルである。2009年、2010年、そして2011年。毎年、デザインは同じだが、「311」の数字を刻んだ。
あの時の、ずっと続くのではないかと思うほど、長く深い揺れ。あの感じはまだ、身体の底に残っている。あの揺動から、新しい時代がはじまったような気がする。
今年は、今日で終わるけれど、震災後はまだまだ続く。希望に向かって。
どんなことがあっても、生かされている自分と、希望があれば、前向きに生きていける。たぶん、眼に見えない震災後は、新年から少しずつ自分の周りにも形になって現れてくることだろう。そのときは、くじけず、心を奮い立たせて、乗り越えていこうと、決意を新たにする。
ともに希望あるあしたへ。
あしたは新年だ。
今年、仕込んだワインのラベルである。2009年、2010年、そして2011年。毎年、デザインは同じだが、「311」の数字を刻んだ。
あの時の、ずっと続くのではないかと思うほど、長く深い揺れ。あの感じはまだ、身体の底に残っている。あの揺動から、新しい時代がはじまったような気がする。
今年は、今日で終わるけれど、震災後はまだまだ続く。希望に向かって。
どんなことがあっても、生かされている自分と、希望があれば、前向きに生きていける。たぶん、眼に見えない震災後は、新年から少しずつ自分の周りにも形になって現れてくることだろう。そのときは、くじけず、心を奮い立たせて、乗り越えていこうと、決意を新たにする。
ともに希望あるあしたへ。
あしたは新年だ。
2011年11月30日
ワインの11月
3年前、50歳を機に始めたことがある。
このブログも、そのうちの一つ。
リーマンショックの影響で、週休3日という生活が始まり、持て余す時間と将来への不安から、農業に関心を持った。

当時のブログを振り返ってみると。
"50歳を機に始めたことがある。それは、ワインづくり。
60歳になって、会社からリタイアする事になったら、残りの人生はワインづくりを楽しみたい。
60歳から15年間は、葡萄とワインづくり。
その準備のために、55歳までに、ぶどう栽培とワインづくりを習い、
55歳からは自分の畑を確保して、ぶどうの苗を植える。
定年を迎えた頃には、ちょうど良いぶどうができて、自分が育てたぶどうでワインを仕込むことができるという寸法。"
いまにして思えば、暢気なもんである。

そのときに、行動に移したことは、次の6つである。
① 長野農業公社への登録
② ぶどう農家のお手伝い
③ メルローの挿し木
④ ぶどうの四季セミナーの受講
⑤ 古里ぶどう園の観察
⑥ 自家用ワインの仕込み
長野農業公社は登録したものの、その後、何の音沙汰もなかった。
情報収集するのも困難である。現実には、農家の高齢化が進み、荒廃農地は広がるが、サラリーマンが兼業で、意欲はあっても、実際に農業を始めるきっかけを見つけることすら難しいという現実。
そんな中で、こんな中途半端な自分を受け入れてくれたのが、楠さんだった。

楠さんは、海外での商社マンとしての職を棄て、地元に戻って、40歳を過ぎてから、ワイン造りに取り組んでいる。
楠さんからは、ワイン造りの前に農業生産者であれ、と教えていただいた。
土地に根ざした農業生産者として、地元の仲間たちとの関係を深めていくこと。農業は一人ではできない。多くの人たちの有形無形の協力が必要だ。サラリーマンの兼業という安易な気持ちでは駄目なんだと、楠さんは農作業を通じて、教えてくれたのだと思う。

農作業の合間に、休憩しながら、近い将来にこの場所にワイナリーを造りたいと、楠さんの夢を聞いた。
その夢の実現を支えにして、楠さんは日々の農作業に黙々と取り組んできた。
そして、3年が経過し、楠さんからいただいたメルローの挿し木が小さな実をつけるほどに生長した秋に、楠さんは、念願のワイナリーをオープンしたのであった。

2011.11.13 sun.
"楠ワイナリーという、誕生の場にいる。
楠さんに会ったのは、リーマショックで、会社が週休三日になって、行き先を模索していた時である。
時間がたっぷりあった。荒廃農地がたっぷりあることも知った。その荒廃地を活用して、ワイン葡萄を作ろうと考えた。その時、その話を持ちかけた行政の窓口からはなんの回答もなかった。
そんな中で、出会ったのが楠さんだ。僕がやろうとしていたことを、十年も前から、真摯に向かいあって、真正面から取り組んでいる。
ワイナリーをつくろうと思うと話を、巨峰の摘果の休憩の時に聞いた。それから、ワインは長野県原産地認証を受けたり、どんどん、夢が元気が現実になって行くのを、目の当たりにしてきた。自分はできないが、夢を実現している人から、頂戴するものは、僕の元気の素です。
また、元気を頂戴しました。ありがとう、楠ワイナリー。"

オープニングセレモニーで、楠さんには、浮かれた様子は微塵もなかった。むしろ、夢が実現したこれからの方が大変なんですと、引き締まった表情で語ってくれた。
ようやくスタートラインについたという気持ちなんだろう。ぶどう作りからワイン造りへ、楠さんの新しい挑戦は始まったばかりだ。

楠ワイナリー(湯っ蔵んど隣)
長野県須坂市亀倉123-1
このブログも、そのうちの一つ。
リーマンショックの影響で、週休3日という生活が始まり、持て余す時間と将来への不安から、農業に関心を持った。
当時のブログを振り返ってみると。
"50歳を機に始めたことがある。それは、ワインづくり。
60歳になって、会社からリタイアする事になったら、残りの人生はワインづくりを楽しみたい。
60歳から15年間は、葡萄とワインづくり。
その準備のために、55歳までに、ぶどう栽培とワインづくりを習い、
55歳からは自分の畑を確保して、ぶどうの苗を植える。
定年を迎えた頃には、ちょうど良いぶどうができて、自分が育てたぶどうでワインを仕込むことができるという寸法。"
いまにして思えば、暢気なもんである。
そのときに、行動に移したことは、次の6つである。
① 長野農業公社への登録
② ぶどう農家のお手伝い
③ メルローの挿し木
④ ぶどうの四季セミナーの受講
⑤ 古里ぶどう園の観察
⑥ 自家用ワインの仕込み
長野農業公社は登録したものの、その後、何の音沙汰もなかった。
情報収集するのも困難である。現実には、農家の高齢化が進み、荒廃農地は広がるが、サラリーマンが兼業で、意欲はあっても、実際に農業を始めるきっかけを見つけることすら難しいという現実。
そんな中で、こんな中途半端な自分を受け入れてくれたのが、楠さんだった。
楠さんは、海外での商社マンとしての職を棄て、地元に戻って、40歳を過ぎてから、ワイン造りに取り組んでいる。
楠さんからは、ワイン造りの前に農業生産者であれ、と教えていただいた。
土地に根ざした農業生産者として、地元の仲間たちとの関係を深めていくこと。農業は一人ではできない。多くの人たちの有形無形の協力が必要だ。サラリーマンの兼業という安易な気持ちでは駄目なんだと、楠さんは農作業を通じて、教えてくれたのだと思う。

農作業の合間に、休憩しながら、近い将来にこの場所にワイナリーを造りたいと、楠さんの夢を聞いた。
その夢の実現を支えにして、楠さんは日々の農作業に黙々と取り組んできた。
そして、3年が経過し、楠さんからいただいたメルローの挿し木が小さな実をつけるほどに生長した秋に、楠さんは、念願のワイナリーをオープンしたのであった。

2011.11.13 sun.
"楠ワイナリーという、誕生の場にいる。
楠さんに会ったのは、リーマショックで、会社が週休三日になって、行き先を模索していた時である。
時間がたっぷりあった。荒廃農地がたっぷりあることも知った。その荒廃地を活用して、ワイン葡萄を作ろうと考えた。その時、その話を持ちかけた行政の窓口からはなんの回答もなかった。
そんな中で、出会ったのが楠さんだ。僕がやろうとしていたことを、十年も前から、真摯に向かいあって、真正面から取り組んでいる。
ワイナリーをつくろうと思うと話を、巨峰の摘果の休憩の時に聞いた。それから、ワインは長野県原産地認証を受けたり、どんどん、夢が元気が現実になって行くのを、目の当たりにしてきた。自分はできないが、夢を実現している人から、頂戴するものは、僕の元気の素です。
また、元気を頂戴しました。ありがとう、楠ワイナリー。"

オープニングセレモニーで、楠さんには、浮かれた様子は微塵もなかった。むしろ、夢が実現したこれからの方が大変なんですと、引き締まった表情で語ってくれた。
ようやくスタートラインについたという気持ちなんだろう。ぶどう作りからワイン造りへ、楠さんの新しい挑戦は始まったばかりだ。

楠ワイナリー(湯っ蔵んど隣)
長野県須坂市亀倉123-1
2011年11月27日
元国宝の御堂と十一面観音
上山田温泉から麻績へ抜ける道を登りはじめる処に、その寺はある。
智識寺、真言宗の古刹である。


寺の起源は、740(天平12)年、聖武天皇が国家鎮護を願って建立した御堂である。その後、坂上田村麻呂が改修し、征夷大将軍の縁であろうか、源頼朝がふかく尊崇帰依している。頼朝は、1197(建久8)年に、七堂伽藍を建立し、山号を清涼院、寺号を智識寺とした。頼朝が寄進した仁王尊は仁王門に現存している。


このような寺格、由緒があってか、大御堂は、国の特別保護建造物・国宝に指定され、その大御堂に安置されている十一面観音像も国宝に指定されている。戦後、法改正により、国宝から重要文化財となり、今日に至っている。

大御堂は萱葺きで、禅宗寺院の佇まいをみせる。柱には鎌倉期のものが遺されていて、朽ちかけた木の表面に流れた時間の長さを感じる。

本尊の十一面観音は、行基の作とされ、70年一度しか開帳されない秘仏とされてきた。

3メートル近い一木造りの立像で、厨子のなかに収められているため、全身の姿を伺うことはできないが、細身の長身で、腰をゆるやかに反らし優美な曲線を描いている。ややアンバランスに大きな尊顔とおなじく長くのびる腕が、全体で微妙な美の調和を計っている。一見すると、このハーモニーは法隆寺の百済観音像のそれに近い。十一面観音が、百済系の仏象の影響を受けているのは明らかだ。あるいは百済系渡来仏師の手に依るものかもしれない。



大御堂は、十一面観音の左右に、聖観音、地蔵尊、四天王が並んでいる。それぞれ、室町期のものとされている。
松代群発地震で仏像が倒れ、指先などに損傷が残っている。そのとき、十一観音は東京国立博物館に避難していたそうだ。


四天王はどことなくユーモラス。




これだけの寺が、20年間、住職不在の無住の寺であったという。この4月に住職として、この寺と歴史を護ることになった若い住職が教えてくれた。訪れると、黄色いトレーナー姿で落葉を片付ける若い住職の姿があった。「あまり、やりすぎると、地域の皆さんにやることとなくなると叱られる」そうで、加減が難しいそうだ。無住の寺は住民の奉仕の心に支えられ、護られてきたのであった。

この寺を観光客が放っておくはずがないのだが、廃れゆく温泉街と同様に、訪れる人は少ない。
十一面観音の隣に目立たないが、大黒天が祀られている。福まねきの招喜大黒天。「実は、こちらの大黒様のほうが人気があるんです。」と住職。たぶん、若い住職がこの寺に活気を招き入れるにちがいない。
智識寺でしょ、受験にも効能ありそうだし。
拝観料200円。寺務所の住職に声をかけると大御堂の鍵を外してくれる。観覧するなら、ひっそりとした今のうち。
智識寺、真言宗の古刹である。
寺の起源は、740(天平12)年、聖武天皇が国家鎮護を願って建立した御堂である。その後、坂上田村麻呂が改修し、征夷大将軍の縁であろうか、源頼朝がふかく尊崇帰依している。頼朝は、1197(建久8)年に、七堂伽藍を建立し、山号を清涼院、寺号を智識寺とした。頼朝が寄進した仁王尊は仁王門に現存している。
このような寺格、由緒があってか、大御堂は、国の特別保護建造物・国宝に指定され、その大御堂に安置されている十一面観音像も国宝に指定されている。戦後、法改正により、国宝から重要文化財となり、今日に至っている。
大御堂は萱葺きで、禅宗寺院の佇まいをみせる。柱には鎌倉期のものが遺されていて、朽ちかけた木の表面に流れた時間の長さを感じる。
本尊の十一面観音は、行基の作とされ、70年一度しか開帳されない秘仏とされてきた。
3メートル近い一木造りの立像で、厨子のなかに収められているため、全身の姿を伺うことはできないが、細身の長身で、腰をゆるやかに反らし優美な曲線を描いている。ややアンバランスに大きな尊顔とおなじく長くのびる腕が、全体で微妙な美の調和を計っている。一見すると、このハーモニーは法隆寺の百済観音像のそれに近い。十一面観音が、百済系の仏象の影響を受けているのは明らかだ。あるいは百済系渡来仏師の手に依るものかもしれない。
大御堂は、十一面観音の左右に、聖観音、地蔵尊、四天王が並んでいる。それぞれ、室町期のものとされている。
松代群発地震で仏像が倒れ、指先などに損傷が残っている。そのとき、十一観音は東京国立博物館に避難していたそうだ。
四天王はどことなくユーモラス。
これだけの寺が、20年間、住職不在の無住の寺であったという。この4月に住職として、この寺と歴史を護ることになった若い住職が教えてくれた。訪れると、黄色いトレーナー姿で落葉を片付ける若い住職の姿があった。「あまり、やりすぎると、地域の皆さんにやることとなくなると叱られる」そうで、加減が難しいそうだ。無住の寺は住民の奉仕の心に支えられ、護られてきたのであった。
この寺を観光客が放っておくはずがないのだが、廃れゆく温泉街と同様に、訪れる人は少ない。
十一面観音の隣に目立たないが、大黒天が祀られている。福まねきの招喜大黒天。「実は、こちらの大黒様のほうが人気があるんです。」と住職。たぶん、若い住職がこの寺に活気を招き入れるにちがいない。
智識寺でしょ、受験にも効能ありそうだし。
拝観料200円。寺務所の住職に声をかけると大御堂の鍵を外してくれる。観覧するなら、ひっそりとした今のうち。
2011年11月03日
古代史の10月
10月は古代史であった。
歴史には時代に関わらず、関心がある。洋の東西も問わない。
憧れの人をあげるとしたら、迷わずシュリーマン、その人を挙げる。
大学時代を過ごした京都で出会った二人。
一人は、高校の同窓生であり、もう一人は大学の後輩だ。
それぞれ歴史学を志し、そして、それを究めつつある。
10月の長野で二人がつながり、古代史のセミナーが開催された。

20111015「古代シナノ〜信濃国の成立」
学術シンポジウム「古代シナノ地域史の再構築」高校の同窓生の田島公君がコーディネーターである。田島君が始めた古代史セミナーは、このシンポジウムで150回を数えた。

大化の改新を否定してしまった学者が、信濃国の成立について、大胆な仮説を提示した。迫力あるな、原秀三郎先生。
・古代シナノは、律令国家の下では、科野国(シナノノクニ)と三野後国(ミノノミチノシリノクニ)の二つに分たれて、統治されていたという説。
・科野国は、現在の東北信、千曲川流域。大和朝廷の前線基地の位置づけ。
・三野後国は、現在の中南信、木曽川・天竜川流域。大和朝廷の王領。三野前国は美濃国に、三野後国は諏訪国へ。(国名に前後が付くのは、越前国、越後国を想起)両国が信濃国として、統治されるのは9世紀の終わり頃になるが、両国の成立時の特性は、そのまま今日まで引き継がれているように思える。

学生の頃、いまから30年前になるが、古代史に関わらず、歴史学はマルクス主義の影響を大きく受けていた。理論が先行した歴史像が提示され、史料の正確な読み込み、考古学や民俗学などの周辺分野の成果を取り入れることに消極的だった。古代史は、木簡の考古史料の発見が相継ぎ、これまでの歴史像の再構築が迫られている。
この日のシンポジウムでも、歴史学の方法は随分、多様で豊かになったものだと感じた。古代シナノの歴史像は、あくまでも「仮説」という前提であったが、これから、どのように実証されていくのか、楽しみがまたひとつ増えた。

20111016「古代シナノ〜戸隠通天牙笏の謎」
シンポジウム2日目は、パワースポットで脚光を浴びる戸隠神社の重要文化財、通天牙笏(げしゃく)の話だ。

戸隠神社所蔵の重要文化財の通天牙笏は、持統天皇が荒ぶる戸隠の神を鎮めるために奉納したものとの見解が、橿原考古学研究所長の菅谷政則先生より示された。
文献史料がない限り、断言できないと、正倉院事務所長の米田雄介先生が釘を刺す。
文献資料は現存しないし、今後も発見できないだろうと、菅谷先生。会場からは聖武天皇が、唐に倣って「副都」を信濃国に置くことを計画し、水神を祀るために戸隠神社(九頭竜)に奉納したものという、菅谷擁護論が出た。こんな発言が市井の研究者から出るあたりが、畏れるべし信濃史学だ。
古代史は文献資料が少ないから、構想力とか、論理力とか、仮説力、その検証力が求められる。古代シナノの地域史を再構築する試みは、まだ始まったばかりだが、このシンポジウムが口火を切る形で、白熱していくに違いない。

150回続いている市民対象の公開講座。田島君は、コーディネーターとして、テーマ設定、講師選定に尽力している。
古代史は、文献が限られていて、また、考古学上の発見などは大きく取り上げられることもあって、市民の関心も高い。8世紀、東大寺を建立した聖武天皇が、鬼無里に「都」を設置しようとしたなんて、それだけでワクワクしませんか?

田島教授、お疲れ様でした。
来週は、金鵄会館に会場を戻して、いよいよ後輩上川君の登場である。
コーディネーター/田島公・東京大学史料編纂所教授
20111023「世界史の中の国風文化」
学生時代、「東寺百合文書」という、中世の古文書群の解読が進んでいた。百合とは、古文書が入っていた箱の数。100の箱に入った大量の古文書が東寺・教王護国寺から発見され、京都府立資料館で整理・解読されていた。当時は、その一端が書籍として刊行されたばかりだった。1980年代始めの話だ。
その古文書にさかんに出てきた「灌頂」という二文字があった。読み飛ばしてしまった自分と、これはなんだと徹底的に追究した後輩。
「灌頂」とは、天皇が即位儀礼の場で即位印を結び真言を唱える行為であるという結論を導き出し、「中世の即位儀礼と仏教」という論文にまとめたのが、愛知県立大学・上川通夫教授である。この研究は、中世の天皇と密教、そして、儀礼を運営する摂関家の関係に切り込み、中世仏教史に新たな一頁を加えた。

この日のセミナーは、「世界史の中の国風文化」。
国風文化は、日本国内で純粋培養されたものではなく、東アジアの緊張関係をまともに受けた「国風化」であったことを、「浄土教」の教科書ともいえる源信の『往生要集』を事例に説明してくれた。『往生要集』の8割以上は、中国の教典の引用であり、日本的なものは見いだせないというのだ。
当時の東アジアの情勢は、宗が、西から西夏(タングート)、北から遼、金(女真)の侵略を受けている。その緊張関係を察知した藤原道長は、宗との関係を考慮し、中国天台勢力との結びつきを計り、天台宗浄土教に帰依していったというのが、上川教授の仮説である。

世界史の連動の中で王朝国家、摂関政治、国風文化を捉えるようという壮大なテーマだ。たぶん、教科書の書換えを迫ることになるだろう。そして、国際仏教都市としての、平安京の再評価。今日の京都までを読み解く新しい視点だ。
講師/上川通夫・愛知県立大学日本文化学部教授
20111024「戸隠神社をゆく」

古代史セミナーの翌日は、上川教授のリクエストに応えて、戸隠神社へ。
参道に神仏習合の痕跡を求め、奥社をめざす。
江戸期までは戸隠山勧修院顕光寺として、多くの参拝者を集めたが、明治の廃仏毀釈がこの神仏混交の聖域を破壊した。
中社の宝物殿には重文が2点。奈良時代の通天牙笏と伝藤原定信写経。廃仏毀釈で破壊された傷跡もここに遺されている。
廃仏毀釈の前後で、日本宗教の形は大きく変わっていることを改めて、認識した。
「極意」で戸隠蕎麦とそばがきで、秋を満喫する。

古代のロマンを満喫した、長くて、濃密な10月が終わる。

歴史には時代に関わらず、関心がある。洋の東西も問わない。
憧れの人をあげるとしたら、迷わずシュリーマン、その人を挙げる。
大学時代を過ごした京都で出会った二人。
一人は、高校の同窓生であり、もう一人は大学の後輩だ。
それぞれ歴史学を志し、そして、それを究めつつある。
10月の長野で二人がつながり、古代史のセミナーが開催された。
20111015「古代シナノ〜信濃国の成立」
学術シンポジウム「古代シナノ地域史の再構築」高校の同窓生の田島公君がコーディネーターである。田島君が始めた古代史セミナーは、このシンポジウムで150回を数えた。
大化の改新を否定してしまった学者が、信濃国の成立について、大胆な仮説を提示した。迫力あるな、原秀三郎先生。
・古代シナノは、律令国家の下では、科野国(シナノノクニ)と三野後国(ミノノミチノシリノクニ)の二つに分たれて、統治されていたという説。
・科野国は、現在の東北信、千曲川流域。大和朝廷の前線基地の位置づけ。
・三野後国は、現在の中南信、木曽川・天竜川流域。大和朝廷の王領。三野前国は美濃国に、三野後国は諏訪国へ。(国名に前後が付くのは、越前国、越後国を想起)両国が信濃国として、統治されるのは9世紀の終わり頃になるが、両国の成立時の特性は、そのまま今日まで引き継がれているように思える。
学生の頃、いまから30年前になるが、古代史に関わらず、歴史学はマルクス主義の影響を大きく受けていた。理論が先行した歴史像が提示され、史料の正確な読み込み、考古学や民俗学などの周辺分野の成果を取り入れることに消極的だった。古代史は、木簡の考古史料の発見が相継ぎ、これまでの歴史像の再構築が迫られている。
この日のシンポジウムでも、歴史学の方法は随分、多様で豊かになったものだと感じた。古代シナノの歴史像は、あくまでも「仮説」という前提であったが、これから、どのように実証されていくのか、楽しみがまたひとつ増えた。
20111016「古代シナノ〜戸隠通天牙笏の謎」
シンポジウム2日目は、パワースポットで脚光を浴びる戸隠神社の重要文化財、通天牙笏(げしゃく)の話だ。
戸隠神社所蔵の重要文化財の通天牙笏は、持統天皇が荒ぶる戸隠の神を鎮めるために奉納したものとの見解が、橿原考古学研究所長の菅谷政則先生より示された。
文献史料がない限り、断言できないと、正倉院事務所長の米田雄介先生が釘を刺す。
文献資料は現存しないし、今後も発見できないだろうと、菅谷先生。会場からは聖武天皇が、唐に倣って「副都」を信濃国に置くことを計画し、水神を祀るために戸隠神社(九頭竜)に奉納したものという、菅谷擁護論が出た。こんな発言が市井の研究者から出るあたりが、畏れるべし信濃史学だ。
古代史は文献資料が少ないから、構想力とか、論理力とか、仮説力、その検証力が求められる。古代シナノの地域史を再構築する試みは、まだ始まったばかりだが、このシンポジウムが口火を切る形で、白熱していくに違いない。
150回続いている市民対象の公開講座。田島君は、コーディネーターとして、テーマ設定、講師選定に尽力している。
古代史は、文献が限られていて、また、考古学上の発見などは大きく取り上げられることもあって、市民の関心も高い。8世紀、東大寺を建立した聖武天皇が、鬼無里に「都」を設置しようとしたなんて、それだけでワクワクしませんか?
田島教授、お疲れ様でした。
来週は、金鵄会館に会場を戻して、いよいよ後輩上川君の登場である。
コーディネーター/田島公・東京大学史料編纂所教授
20111023「世界史の中の国風文化」
学生時代、「東寺百合文書」という、中世の古文書群の解読が進んでいた。百合とは、古文書が入っていた箱の数。100の箱に入った大量の古文書が東寺・教王護国寺から発見され、京都府立資料館で整理・解読されていた。当時は、その一端が書籍として刊行されたばかりだった。1980年代始めの話だ。
その古文書にさかんに出てきた「灌頂」という二文字があった。読み飛ばしてしまった自分と、これはなんだと徹底的に追究した後輩。
「灌頂」とは、天皇が即位儀礼の場で即位印を結び真言を唱える行為であるという結論を導き出し、「中世の即位儀礼と仏教」という論文にまとめたのが、愛知県立大学・上川通夫教授である。この研究は、中世の天皇と密教、そして、儀礼を運営する摂関家の関係に切り込み、中世仏教史に新たな一頁を加えた。
この日のセミナーは、「世界史の中の国風文化」。
国風文化は、日本国内で純粋培養されたものではなく、東アジアの緊張関係をまともに受けた「国風化」であったことを、「浄土教」の教科書ともいえる源信の『往生要集』を事例に説明してくれた。『往生要集』の8割以上は、中国の教典の引用であり、日本的なものは見いだせないというのだ。
当時の東アジアの情勢は、宗が、西から西夏(タングート)、北から遼、金(女真)の侵略を受けている。その緊張関係を察知した藤原道長は、宗との関係を考慮し、中国天台勢力との結びつきを計り、天台宗浄土教に帰依していったというのが、上川教授の仮説である。
世界史の連動の中で王朝国家、摂関政治、国風文化を捉えるようという壮大なテーマだ。たぶん、教科書の書換えを迫ることになるだろう。そして、国際仏教都市としての、平安京の再評価。今日の京都までを読み解く新しい視点だ。
講師/上川通夫・愛知県立大学日本文化学部教授
20111024「戸隠神社をゆく」
古代史セミナーの翌日は、上川教授のリクエストに応えて、戸隠神社へ。
参道に神仏習合の痕跡を求め、奥社をめざす。
江戸期までは戸隠山勧修院顕光寺として、多くの参拝者を集めたが、明治の廃仏毀釈がこの神仏混交の聖域を破壊した。
中社の宝物殿には重文が2点。奈良時代の通天牙笏と伝藤原定信写経。廃仏毀釈で破壊された傷跡もここに遺されている。
廃仏毀釈の前後で、日本宗教の形は大きく変わっていることを改めて、認識した。
「極意」で戸隠蕎麦とそばがきで、秋を満喫する。
古代のロマンを満喫した、長くて、濃密な10月が終わる。
2011年11月01日
プレイバック、神無月。
10月は、誕生月でもあり、一年のうちでも好きな月である。
この10月は、いつもより1.5倍は長いような感じがし、1.8倍くらい濃密だったような気がする。
20歳前半に、マッキントッシュに憧れ、50歳になって、その憧れを掌中にし、存分に恩恵を蒙っているさなかに、スティーブ・ジョブズの訃報をNHKのテロップで眼にした。
あの画面は、その次の瞬間から切り替わったappleの画面とともに、いまも、そしてこれからも眼に焼きついて離れないだろう。
ジョブズの製品をリアルタイムで使い続けてきたことが、僕らの世代の幸運であり、彼の功績。
僕の長い10月は、10月5日から、始まったようなものだ。
クロニクル風に、去り行きし神無月を綴る。

20111008「ハンガリーワイン&音楽の夕べ」

ハンガリーワインは、一言でいうと、甘美である。トカイワインは、澄んだ金色の色の甘美な世界に誘う。一転して、赤には誠実さを感じる。清澄でありながら、スパイシーな余韻が残る。
今宵は甘美な余韻に軍配があがる。

20111010「和のゆらぎ」

須坂クラシック美術館で、アンティーク着物の大虫干し会に出くわした。秋とはいえ、20℃を越えるような陽気は、着物の虫干しには最良の日和だ。

美術館は生糸で財を成した須坂の豪商の古民家である。横浜市在住の日本画家岡信孝氏により寄贈を受けた古民芸コレクション約2000点を展示している。今日は、そのコレクションであるアンティーク着物の虫干しというわけだ。
古民家の座敷を秋の風が流れ、着物がゆらぐ様がなんとも大正浪漫である。




和のゆらぎに「秋風」をつかまえた。
20111009「善光寺界隈、彷徨」

少し歩くと、汗ばむような陽気となった。風がほどよい爽やかさを運んでくる。気がつけば、空には雲一つない。
善光寺の喧噪から離れて、朝早い、東山魁夷館は空いている、静かだ。常設展示は「巡りゆく日本の山河」。年間パスポートがお得で、便利。
好きな絵があった。
「夕静寂」。幾重のも重ねられた青い深山に、一筋、白く滝が流れる。スケッチ、下図、本制作品の三点が並んで、制作過程が伺われる。スケッチには滝はなく、画伯の創作であることがわかる。

善光寺本堂は、大きなマスクをしていた。大型のクレーンも入っていて、環境客には気の毒だが、珍しい光景ではある。

善光寺界隈のこれまで通ったことのない路地裏を巡り、東山魁夷館に戻る。
ささやかな連休の愉しみ、それは彷徨。

20111013「長野酒メッセ2011」

長野酒メッセは年々、盛大になっている。長野県の酒蔵が東西南北から70蔵以上も一堂に会して、自慢の酒を披露するのだから、この盛況は当然のことかもしれない。
長野県が原産地呼称制度を始めてから、確実に長野の酒は質が上がっている。



長野の酒、ルネサンスだ!
20111014「秋の夜長は長講一席」

神無月の寿限無寄席は、柳家一琴師匠「柳田格之進」。
優に一時間を越えるたっぷりの人情噺。なまで一度は聴きたかった噺。毎回、笑いに包まれる居酒屋寿限無大広間に張り詰める空気。
武士の娘の健気さにもらい泣き。落語で涙を流したのは初めてかもしれない。
落語の奥深さを知る。

後半へつづく
この10月は、いつもより1.5倍は長いような感じがし、1.8倍くらい濃密だったような気がする。
20歳前半に、マッキントッシュに憧れ、50歳になって、その憧れを掌中にし、存分に恩恵を蒙っているさなかに、スティーブ・ジョブズの訃報をNHKのテロップで眼にした。
あの画面は、その次の瞬間から切り替わったappleの画面とともに、いまも、そしてこれからも眼に焼きついて離れないだろう。
ジョブズの製品をリアルタイムで使い続けてきたことが、僕らの世代の幸運であり、彼の功績。
僕の長い10月は、10月5日から、始まったようなものだ。
クロニクル風に、去り行きし神無月を綴る。

20111008「ハンガリーワイン&音楽の夕べ」

ハンガリーワインは、一言でいうと、甘美である。トカイワインは、澄んだ金色の色の甘美な世界に誘う。一転して、赤には誠実さを感じる。清澄でありながら、スパイシーな余韻が残る。
今宵は甘美な余韻に軍配があがる。

20111010「和のゆらぎ」

須坂クラシック美術館で、アンティーク着物の大虫干し会に出くわした。秋とはいえ、20℃を越えるような陽気は、着物の虫干しには最良の日和だ。

美術館は生糸で財を成した須坂の豪商の古民家である。横浜市在住の日本画家岡信孝氏により寄贈を受けた古民芸コレクション約2000点を展示している。今日は、そのコレクションであるアンティーク着物の虫干しというわけだ。
古民家の座敷を秋の風が流れ、着物がゆらぐ様がなんとも大正浪漫である。




和のゆらぎに「秋風」をつかまえた。
20111009「善光寺界隈、彷徨」

少し歩くと、汗ばむような陽気となった。風がほどよい爽やかさを運んでくる。気がつけば、空には雲一つない。
善光寺の喧噪から離れて、朝早い、東山魁夷館は空いている、静かだ。常設展示は「巡りゆく日本の山河」。年間パスポートがお得で、便利。
好きな絵があった。
「夕静寂」。幾重のも重ねられた青い深山に、一筋、白く滝が流れる。スケッチ、下図、本制作品の三点が並んで、制作過程が伺われる。スケッチには滝はなく、画伯の創作であることがわかる。

善光寺本堂は、大きなマスクをしていた。大型のクレーンも入っていて、環境客には気の毒だが、珍しい光景ではある。

善光寺界隈のこれまで通ったことのない路地裏を巡り、東山魁夷館に戻る。
ささやかな連休の愉しみ、それは彷徨。

20111013「長野酒メッセ2011」

長野酒メッセは年々、盛大になっている。長野県の酒蔵が東西南北から70蔵以上も一堂に会して、自慢の酒を披露するのだから、この盛況は当然のことかもしれない。
長野県が原産地呼称制度を始めてから、確実に長野の酒は質が上がっている。



長野の酒、ルネサンスだ!
20111014「秋の夜長は長講一席」
神無月の寿限無寄席は、柳家一琴師匠「柳田格之進」。
優に一時間を越えるたっぷりの人情噺。なまで一度は聴きたかった噺。毎回、笑いに包まれる居酒屋寿限無大広間に張り詰める空気。
武士の娘の健気さにもらい泣き。落語で涙を流したのは初めてかもしれない。
落語の奥深さを知る。
後半へつづく
2011年10月31日
桔梗ヶ原、ワイナリーをゆく。
空は、一点の曇りもなく、高く、青く、澄んでいた。
たぶん、この日は信州の何処を訪ねても、秋を満喫できたに違いない。

僕がめざすは、塩尻である。塩尻ワイナリーフェスタ2011。
臨時列車、快速桔梗ヶ原ワイナリー2号に乗車。姨捨山から輝く千曲川を眺め、快速とはいうものの、通過待ちで駅に停車するたびに、途中下車の誘惑に駆られながら、安曇平に入る。梓川の清流、聳えるアルプスの山々、「おひさま」が眩しい。
塩尻駅東口は、会場間際で、受付の長い列が続く。

僕は、西口から、城戸ワイナリーをめざす。
すっかり、有名になってしまった、このブティックワイナリーは毎年、真っ先に訪れることにしている。残念なことに、このイベントの規模に見合うだけの、量はこのワイナリーにはない。あるのは、質の高さとワインづくりの情熱である。時間がゆるせば、ゆっくり訪ねるべきワイナリーである。

ここまで来たら、城戸さんの自家農園を見学させていただく。まだ、収穫されないカベルネ・ソービニョンがスマート仕立ての棚に整然と並んでいる。こうした設えにワイナリーの誠実さを見る。



塩尻駅のすぐ近くには、サントリー塩尻ワイナリー。

今年の試飲で、印象に残ったのは、「塩尻メルロ2008」、「高山村シャルドネ2009」を惜しげもなく、提供してくれた。ご当地塩尻産のメルロー100%の塩尻メルロ2008の、華やかな果実香と力強い味わいは、まさに塩尻ワイナリーフェスタのために用意された逸品だ。ほお肉のビーフシチュウをつまみにして、満足するまでおかわりをした。



ゆったり、ワインと食事ができる、フェスタの隠れ家。
塩尻駅前から、バスに乗って、桔梗ヶ原の田園地帯を抜け、再び、桔梗ヶ原へ。五一わいん、井筒ワインが隣接する、賑わいのエリアだ。
井筒ワインの地下貯蔵庫で、2年あまり、オーク樽で熟成中のワインを直接、いただく。




そして、五一わいん。毎回、お楽しみの、樽醗酵中の「竜眼」。樽から直接、注いでくれる味わいは、葡萄の甘さのなかで気泡がはじける。葡萄がワインになる過程が口の中で再現されるようだ。この一杯が飲みたくて、ここに来てしまう。



五一わいんの圃場に足を踏み入れると、葡萄造りとワインづくりの時間がゆっくりと流れ、なかなか、そこから、立ち去ることができない。





また、来年もきてしまうだろうな。

たぶん、この日は信州の何処を訪ねても、秋を満喫できたに違いない。
僕がめざすは、塩尻である。塩尻ワイナリーフェスタ2011。
臨時列車、快速桔梗ヶ原ワイナリー2号に乗車。姨捨山から輝く千曲川を眺め、快速とはいうものの、通過待ちで駅に停車するたびに、途中下車の誘惑に駆られながら、安曇平に入る。梓川の清流、聳えるアルプスの山々、「おひさま」が眩しい。
塩尻駅東口は、会場間際で、受付の長い列が続く。
僕は、西口から、城戸ワイナリーをめざす。
すっかり、有名になってしまった、このブティックワイナリーは毎年、真っ先に訪れることにしている。残念なことに、このイベントの規模に見合うだけの、量はこのワイナリーにはない。あるのは、質の高さとワインづくりの情熱である。時間がゆるせば、ゆっくり訪ねるべきワイナリーである。
ここまで来たら、城戸さんの自家農園を見学させていただく。まだ、収穫されないカベルネ・ソービニョンがスマート仕立ての棚に整然と並んでいる。こうした設えにワイナリーの誠実さを見る。
塩尻駅のすぐ近くには、サントリー塩尻ワイナリー。
今年の試飲で、印象に残ったのは、「塩尻メルロ2008」、「高山村シャルドネ2009」を惜しげもなく、提供してくれた。ご当地塩尻産のメルロー100%の塩尻メルロ2008の、華やかな果実香と力強い味わいは、まさに塩尻ワイナリーフェスタのために用意された逸品だ。ほお肉のビーフシチュウをつまみにして、満足するまでおかわりをした。
ゆったり、ワインと食事ができる、フェスタの隠れ家。
塩尻駅前から、バスに乗って、桔梗ヶ原の田園地帯を抜け、再び、桔梗ヶ原へ。五一わいん、井筒ワインが隣接する、賑わいのエリアだ。
井筒ワインの地下貯蔵庫で、2年あまり、オーク樽で熟成中のワインを直接、いただく。
そして、五一わいん。毎回、お楽しみの、樽醗酵中の「竜眼」。樽から直接、注いでくれる味わいは、葡萄の甘さのなかで気泡がはじける。葡萄がワインになる過程が口の中で再現されるようだ。この一杯が飲みたくて、ここに来てしまう。
五一わいんの圃場に足を踏み入れると、葡萄造りとワインづくりの時間がゆっくりと流れ、なかなか、そこから、立ち去ることができない。
また、来年もきてしまうだろうな。
2011年09月30日
プレイバック、長月。
朝陽は、空の淵を淡い光で朧にし、天空に向かって青の深みが増していく。

一片の曇りもない完全無欠な青空が広がっている。
この青空を背景にすると、すべてが秋の風景で切り出される。
飯綱山に一筋の雲あり。

花鳥風月で振り返る、長月の秋。
花
鶏の頭に蛙

鳥
日没に飛び立つ一群の鳥

風
残暑厳しき秋祭り、一陣の風

月
中秋の赤い月、やや欠けたる

そして、秋の陽は釣瓶落としに、長い夜が来る。

一片の曇りもない完全無欠な青空が広がっている。
この青空を背景にすると、すべてが秋の風景で切り出される。
飯綱山に一筋の雲あり。
花鳥風月で振り返る、長月の秋。
花
鶏の頭に蛙
鳥
日没に飛び立つ一群の鳥
風
残暑厳しき秋祭り、一陣の風
月
中秋の赤い月、やや欠けたる
そして、秋の陽は釣瓶落としに、長い夜が来る。
2011年09月15日
赤い月
早朝、昇る朝陽と、西に浮かぶ残月をみた。
朝陽は直視できるほどに深い朱色を湛え、残月は、淡い空のなかに月の形をした雲のようだった。
黄昏と夜とが重なる頃、その境界線のあたりに昇る赤い月をみた。

直視できないほどの灼熱した光を放射して沈んだ夕陽は、その残光を月の中にとどめているようだった。

中秋から二晩が過ぎ、わずかに欠けた満月もいいものだ。
朝陽は直視できるほどに深い朱色を湛え、残月は、淡い空のなかに月の形をした雲のようだった。
黄昏と夜とが重なる頃、その境界線のあたりに昇る赤い月をみた。
直視できないほどの灼熱した光を放射して沈んだ夕陽は、その残光を月の中にとどめているようだった。
中秋から二晩が過ぎ、わずかに欠けた満月もいいものだ。
2011年09月01日
花鳥風月の夏
窓を開けると秋。
風が心地よく、虫たちは静寂のなかで、澄んだ音色を奏でている。
去りゆく夏か、残してきた夏か、花鳥風月で夏を振り返る。
「花」
朝顔は、柔らかな花弁が風の強弱により形を変える。 陽射しは眩しく、陰影は深い。

コスモスと入道雲

「鳥」


「風」
熱風

高層の飛行物体

そして、「月」

2011年 夏の花 鳥 風 月
風が心地よく、虫たちは静寂のなかで、澄んだ音色を奏でている。
去りゆく夏か、残してきた夏か、花鳥風月で夏を振り返る。
「花」
朝顔は、柔らかな花弁が風の強弱により形を変える。 陽射しは眩しく、陰影は深い。
コスモスと入道雲
「鳥」
「風」
熱風
高層の飛行物体
そして、「月」
2011年 夏の花 鳥 風 月
2011年08月31日
プレイバック、葉月。
夏なのに、秋が交錯するこの月だった。終わりが近づき、いつもの夏を取り戻す。
昨年の夏は猛暑だったということは覚えていない。記憶は儚いものだ。
志の輔までには時間の余裕があったので、鏡池周辺に佇んでいた。
ここは戸隠を感じることができる場所だ。

池の周辺は自然道になっていて、少し歩けば自然の深さに手が届く。
この夏になって、はじめて蝉の鳴き声が頭上から降り注いだ。

緑のなかでは、花は鮮やかだ。

虫たちにもそれがわかるのだろう。魅き寄せられ、香りと密に夢中になっている。

あまりに無防備な蝶は、カメラを近づけても逃げることをしない。



池のほとりでは。。。
こんな年齢の取り方をしてみたいものだね。
昨年の夏は猛暑だったということは覚えていない。記憶は儚いものだ。
志の輔までには時間の余裕があったので、鏡池周辺に佇んでいた。
ここは戸隠を感じることができる場所だ。
池の周辺は自然道になっていて、少し歩けば自然の深さに手が届く。
この夏になって、はじめて蝉の鳴き声が頭上から降り注いだ。
緑のなかでは、花は鮮やかだ。
虫たちにもそれがわかるのだろう。魅き寄せられ、香りと密に夢中になっている。
あまりに無防備な蝶は、カメラを近づけても逃げることをしない。
池のほとりでは。。。
こんな年齢の取り方をしてみたいものだね。
2011年08月25日
発見、夏の名残り
秋からのゆり戻しで少し蒸し暑い。いや、この時期の本来の気候なのかもしれない。

通勤途上の公園に、テントが3つ張られていた。
その周りには荷物が括られた自転車と、濡れた雨具が無造作に干されている。

夏休みの学生の一行だろうか。テントは静かで、たぶん泥のように眠っているんだろうね。
風邪なぞ、引かないように。

駅のコンコースにはリュックが並んでいる。カラフルになったものだね。

山ガールもちらほら見かけるが、年季の入った山(姥)ガールのほうが断然多いな。(失礼しました!)

通勤途上の公園に、テントが3つ張られていた。
その周りには荷物が括られた自転車と、濡れた雨具が無造作に干されている。
夏休みの学生の一行だろうか。テントは静かで、たぶん泥のように眠っているんだろうね。
風邪なぞ、引かないように。
駅のコンコースにはリュックが並んでいる。カラフルになったものだね。
山ガールもちらほら見かけるが、年季の入った山(姥)ガールのほうが断然多いな。(失礼しました!)
2011年08月23日
発見、小さな秋
戸倉駅に着く頃にはすっかり雨はあがり、雲間に青い空が見えた。

雲はうろこ状に連なり、秋の雲である。

公園の桜の木は黄色くなった葉っぱを落とし始めた。

スーパーのお酒の陳列棚にも秋を発見。
「秋楽」旨味たっぷり。限定醸造である。ほかに「秋味」も。
よくこのタイミングで並ぶものだなあ、と感心して、「秋楽」。

麦芽を焙煎した深い味わいがいい。
これからは熱燗で一杯の、間隙をついた小さな秋である。
雲はうろこ状に連なり、秋の雲である。
公園の桜の木は黄色くなった葉っぱを落とし始めた。
スーパーのお酒の陳列棚にも秋を発見。
「秋楽」旨味たっぷり。限定醸造である。ほかに「秋味」も。
よくこのタイミングで並ぶものだなあ、と感心して、「秋楽」。
麦芽を焙煎した深い味わいがいい。
これからは熱燗で一杯の、間隙をついた小さな秋である。
2011年08月20日
風景としての落語
高座の前列にど〜んと座る。それが、僕の指定席だったが、落語会を主催する側になって、裏方として高座を見ることになると、これまでの落語とはちがった風景が見えてくる。

舞台の袖から高座をみると、見えてくるのがお客さんの笑いだ。これまで、噺家と対峙するようにして、落語だけしか聴いていなかった自分に気づかされた。
噺家の言葉や仕草を一人ひとりのお客さんが受けとめて、それがひとつになって、会場全体の笑いとなる。
その笑いを受けとめて、噺家の調子がどんどん上がる。それにまた会場が反応する。
会場の雰囲気が最高潮に達した辺りで、すっと、落とす。お客さんの力がスゥ〜っと抜ける。
落語の魅力を再発見したような心持ちだ。

この夜は、入船亭扇好の「落語の風景 第二十夜」。長野県佐久市出身の落語家で、師匠は入船亭扇橋。五代目柳家小さんの孫弟子にあたる。



「落語の風景」は、すっかり戸倉上山田の夏の風物詩となった。噺のほかに、寄席太鼓を披露したり、落語質問コーナーがあったり、落語を構成する様々な要素にふれることができる。地元出身ということだけでなく、扇好師の明るく、さわやかな人柄が人を魅きつけ、この落語会を続けさせているのだろう。
入船亭扇好 落語の風景 第二十夜
8月19日(金)19時〜20時30分
千曲市・上山田文化会館特設会場
・「たがや」入船亭遊一
・「笠碁」 入船亭扇好

舞台の袖から高座をみると、見えてくるのがお客さんの笑いだ。これまで、噺家と対峙するようにして、落語だけしか聴いていなかった自分に気づかされた。
噺家の言葉や仕草を一人ひとりのお客さんが受けとめて、それがひとつになって、会場全体の笑いとなる。
その笑いを受けとめて、噺家の調子がどんどん上がる。それにまた会場が反応する。
会場の雰囲気が最高潮に達した辺りで、すっと、落とす。お客さんの力がスゥ〜っと抜ける。
落語の魅力を再発見したような心持ちだ。
この夜は、入船亭扇好の「落語の風景 第二十夜」。長野県佐久市出身の落語家で、師匠は入船亭扇橋。五代目柳家小さんの孫弟子にあたる。
「落語の風景」は、すっかり戸倉上山田の夏の風物詩となった。噺のほかに、寄席太鼓を披露したり、落語質問コーナーがあったり、落語を構成する様々な要素にふれることができる。地元出身ということだけでなく、扇好師の明るく、さわやかな人柄が人を魅きつけ、この落語会を続けさせているのだろう。
入船亭扇好 落語の風景 第二十夜
8月19日(金)19時〜20時30分
千曲市・上山田文化会館特設会場
・「たがや」入船亭遊一
・「笠碁」 入船亭扇好
2011年08月17日
夏一夜。笑いで暑さを吹き飛ばせ
私事で恐縮でございますが、このたび
戸倉上山田の笑いの風物詩「ざぶとん寄席」を主宰する "Theふとん倶楽部” の末席に加えていただくことに相成りました。
譲り受けた伝統の半纏を羽織り、寄席の裏方として、ざぶとん運びからデビューです。

当倶楽部の八月特別例会は、地元長野県は佐久市出身の入船亭扇好師匠をお招きし、「入船亭扇好・落語の風景」として開催いたします。落語の風景は本年で第二十夜を迎えることから、これまでとひと味違った趣向で皆様にお届けいたします。
夏の夜に、忽然と出現する寄席空間に夕涼みがてら、ぜひとも足をお運びいただきたく、ご案内申し上げます。
なお、当日はざぶとんご持参のうえ、ご来場ください。

「入船亭扇好・落語の風景 第二十夜」
日時:平成23年8月19日(金) 午後7時開口
出演:入船亭扇好、入船亭遊一(二ツ目)
処:上山田文化会館・特別会場
舞台の上が当日限りの寄席空間になります。
なにとぞ、ご来場のうえ、この珍風景を体感してください。
木戸銭:前売り1,000円
主催:Theふとん倶楽部
後援:上山田文化会館/㈶千曲市文化振興事業団
お問い合わせ:
宮原 026-275-7335
上山田文化会館 026-275-0500
夏一夜。笑いで暑さを吹き飛ばせ
戸倉上山田の笑いの風物詩「ざぶとん寄席」を主宰する "Theふとん倶楽部” の末席に加えていただくことに相成りました。
譲り受けた伝統の半纏を羽織り、寄席の裏方として、ざぶとん運びからデビューです。
当倶楽部の八月特別例会は、地元長野県は佐久市出身の入船亭扇好師匠をお招きし、「入船亭扇好・落語の風景」として開催いたします。落語の風景は本年で第二十夜を迎えることから、これまでとひと味違った趣向で皆様にお届けいたします。
夏の夜に、忽然と出現する寄席空間に夕涼みがてら、ぜひとも足をお運びいただきたく、ご案内申し上げます。
なお、当日はざぶとんご持参のうえ、ご来場ください。
「入船亭扇好・落語の風景 第二十夜」
日時:平成23年8月19日(金) 午後7時開口
出演:入船亭扇好、入船亭遊一(二ツ目)
処:上山田文化会館・特別会場
舞台の上が当日限りの寄席空間になります。
なにとぞ、ご来場のうえ、この珍風景を体感してください。
木戸銭:前売り1,000円
主催:Theふとん倶楽部
後援:上山田文化会館/㈶千曲市文化振興事業団
お問い合わせ:
宮原 026-275-7335
上山田文化会館 026-275-0500
夏一夜。笑いで暑さを吹き飛ばせ
2011年08月16日
夏のぬけがら
午睡のまどろみを現実にもどすのは、蝉の声。それもきまってミンミン蝉。
この夏は蝉の鳴くのを聞かないと思いきや、立秋を境にして一斉に蝉が鳴き出した。

庭の柿の木には、アブラ蝉が3匹、ミンミン蝉が1匹。

そこかしこに蝉のぬけがらがある。夏の短いことを知って、慌てて土から這い出してきたようにみえる。

茄子の葉のうえには、そろそろ交替の時期だとばかり、秋の虫がとまる。

涼風至り、寒蝉鳴く。
寒蝉はひぐらし。ひぐらしの声は、ほかの蝉たちにかき消されて、聞こえてこない。

この夏は蝉の鳴くのを聞かないと思いきや、立秋を境にして一斉に蝉が鳴き出した。
庭の柿の木には、アブラ蝉が3匹、ミンミン蝉が1匹。
そこかしこに蝉のぬけがらがある。夏の短いことを知って、慌てて土から這い出してきたようにみえる。
茄子の葉のうえには、そろそろ交替の時期だとばかり、秋の虫がとまる。
涼風至り、寒蝉鳴く。
寒蝉はひぐらし。ひぐらしの声は、ほかの蝉たちにかき消されて、聞こえてこない。
2011年08月15日
お盆のおやき
この頃では年中食べられるが、おやきはお盆に食べる丸茄子がいい。
丸茄子を輪切りにして、真ん中に切り込みを入れて、甘辛の味噌餡をはさんで、小麦粉を練った柔らかい皮で包んで、蒸かすのが、我が家のおやきである。
出来立てを、はふはふして、汗をかきかき食べるのが、お盆のおやきである。
親父は、ふくらし粉でふくらした皮は好まず、たとえれば餃子風の食感の皮を好んだ。皮を柔らかくするには、小麦粉に油を混ぜて捏ねるのがコツのようだ。松本出身のお袋は、当家に代々伝わるおやきの作り方を、姑である僕の祖母から受け継いで、その味を忠実に再現していると、親父の兄弟連中からは評判だった。
そのお袋は。親父が亡くなってからは、お盆のおやきをあまり作らなくなった。暑さのせいもあるだろうが、作り甲斐ということもあるのだろう。
最近は、市販の物を買ってきて、仏前に供えることが多い。
このところ、気に入っているのが、須坂の鈴木蛍雪堂の、丸大根のおやき。

丸茄子のおやきのように、輪切りの大根に甘辛の味噌餡がはさまり、ちょうどふろふき大根のような旨さがある。

売場に並ぶと、瞬く間に売れていく。確かに旨い。

旨いが、もの足りなさが残る。
暑さが和らぎ、ほどよい大きさの丸茄子が手に入ったら、お袋に無理をいって、おやきを作ってもらおう。
素朴だが、想い出がいっぱい詰まった、我が家のおやきを伝承していくのが、僕の務めかもしれない。
丸茄子を輪切りにして、真ん中に切り込みを入れて、甘辛の味噌餡をはさんで、小麦粉を練った柔らかい皮で包んで、蒸かすのが、我が家のおやきである。
出来立てを、はふはふして、汗をかきかき食べるのが、お盆のおやきである。
親父は、ふくらし粉でふくらした皮は好まず、たとえれば餃子風の食感の皮を好んだ。皮を柔らかくするには、小麦粉に油を混ぜて捏ねるのがコツのようだ。松本出身のお袋は、当家に代々伝わるおやきの作り方を、姑である僕の祖母から受け継いで、その味を忠実に再現していると、親父の兄弟連中からは評判だった。
そのお袋は。親父が亡くなってからは、お盆のおやきをあまり作らなくなった。暑さのせいもあるだろうが、作り甲斐ということもあるのだろう。
最近は、市販の物を買ってきて、仏前に供えることが多い。
このところ、気に入っているのが、須坂の鈴木蛍雪堂の、丸大根のおやき。
丸茄子のおやきのように、輪切りの大根に甘辛の味噌餡がはさまり、ちょうどふろふき大根のような旨さがある。
売場に並ぶと、瞬く間に売れていく。確かに旨い。
旨いが、もの足りなさが残る。
暑さが和らぎ、ほどよい大きさの丸茄子が手に入ったら、お袋に無理をいって、おやきを作ってもらおう。
素朴だが、想い出がいっぱい詰まった、我が家のおやきを伝承していくのが、僕の務めかもしれない。
2011年08月14日
臥竜公園の近代史
墓参りに須坂まで行った。墓は二か所あって、幸高と豊丘の長みょう(玄+少)寺の二つだ。
長みょう寺は、応安2(1369)年甲斐国に開山。応永21(1414)年井上村に移転した後、慶長2(1597)年、火災により現在の地に移った
本堂の前には、樹齢400年余りの桜があり、永い歴史を物語っている。何度か火災にあい、過去帳なども焼失していまい、僕のルーツも詳細にはわからない。

親父は僕を墓参りに連れていきながら、子どもの頃の須坂のことを話してくれた。
結核を患い、長野の療養所に入院した親父は、須坂を離れ、長野に生活を本拠地を移すことになるのだが、須坂を離れてしまった兄弟たちの替わりに、末っ子にも関わらず、祖霊の墓守を続け、その役割を僕に託した。親父は亡くなるまで、本籍を須坂から移さなかった。僕も須坂の産院で生まれている。
臥竜公園入り口の八百屋さんで、花を補給し、ついでに黄桃ともろこしを買う。もろこしはゴールドラッシュ。先が丸みを帯びているのがいいと、店主にもろこしの選び方を伝授される。

そのまま臥竜公園に立ち寄る。
臥竜公園の須坂市立博物館では、特別展「製糸の町と近代都市公園〜開池80周年・築かれた竜ヶ池〜」が開かれていた。
臥竜公園の設計は本多静六博士。日本の森林学の創始者であり、権威である。日比谷公園を始め、全国各地で大規模な公園の設計を手がけた。長野県では、臥竜公園のほか、小諸の懐古園、飯山の城山公園が博士の設計だ。

公園の中心にある竜ヶ池は、昭和6(1931)年、竜ヶ池は製糸不況の失業救済事業として、築造された人工池である。当時、世界大恐慌の影響で、繭の値段が十分の一まで下落したというから、製糸業城下町であった須坂の経済的ダメージも大きく、多くの製糸会社が倒産した。
延べ6,500人、93日の工期をかけて、竜ヶ池は完成した。開池記念の納涼花火大会が開催され、不況のどん底にしずむ須坂にとって、竜ヶ池は経済再生のシンボルとなったわけだ。

本多博士が起案した「須坂町公園設計案」には、臥竜山、鎌田山、百々川河畔にかけて、壮大な公園のプランが描かれている。現在では、それぞれの地に公園が整備されている。博士の先見に感心する。
「須坂町公園設計案」に基づき、臥竜公園の造成が始まったのが、大正15(1926)年10月。親父が須坂に生まれた時と重なる。

長みょう寺は、応安2(1369)年甲斐国に開山。応永21(1414)年井上村に移転した後、慶長2(1597)年、火災により現在の地に移った
本堂の前には、樹齢400年余りの桜があり、永い歴史を物語っている。何度か火災にあい、過去帳なども焼失していまい、僕のルーツも詳細にはわからない。
親父は僕を墓参りに連れていきながら、子どもの頃の須坂のことを話してくれた。
結核を患い、長野の療養所に入院した親父は、須坂を離れ、長野に生活を本拠地を移すことになるのだが、須坂を離れてしまった兄弟たちの替わりに、末っ子にも関わらず、祖霊の墓守を続け、その役割を僕に託した。親父は亡くなるまで、本籍を須坂から移さなかった。僕も須坂の産院で生まれている。
臥竜公園入り口の八百屋さんで、花を補給し、ついでに黄桃ともろこしを買う。もろこしはゴールドラッシュ。先が丸みを帯びているのがいいと、店主にもろこしの選び方を伝授される。
そのまま臥竜公園に立ち寄る。
臥竜公園の須坂市立博物館では、特別展「製糸の町と近代都市公園〜開池80周年・築かれた竜ヶ池〜」が開かれていた。
臥竜公園の設計は本多静六博士。日本の森林学の創始者であり、権威である。日比谷公園を始め、全国各地で大規模な公園の設計を手がけた。長野県では、臥竜公園のほか、小諸の懐古園、飯山の城山公園が博士の設計だ。
公園の中心にある竜ヶ池は、昭和6(1931)年、竜ヶ池は製糸不況の失業救済事業として、築造された人工池である。当時、世界大恐慌の影響で、繭の値段が十分の一まで下落したというから、製糸業城下町であった須坂の経済的ダメージも大きく、多くの製糸会社が倒産した。
延べ6,500人、93日の工期をかけて、竜ヶ池は完成した。開池記念の納涼花火大会が開催され、不況のどん底にしずむ須坂にとって、竜ヶ池は経済再生のシンボルとなったわけだ。
本多博士が起案した「須坂町公園設計案」には、臥竜山、鎌田山、百々川河畔にかけて、壮大な公園のプランが描かれている。現在では、それぞれの地に公園が整備されている。博士の先見に感心する。
「須坂町公園設計案」に基づき、臥竜公園の造成が始まったのが、大正15(1926)年10月。親父が須坂に生まれた時と重なる。
2011年08月12日
国境なき楽団、長野へ
震災から五か月が経った日の晩。
復興支援のチャリテリーコンサートに、国境なき楽団の、庄野真代がやってきた。

庄野真代といえば、「飛んでイスタンブール」。1978年のヒット曲であり、30年近く前のことがあるが、鮮明な記憶の中にある。
コンサートは、アコースティック・ギターだけの演奏で、「中央フリーウェイ」、「異邦人」そして「飛んでイスタンブール」の3曲。
僕らの世代の「懐メロ」的な楽しみ方は、この「アンプラグド」だな。アンプラグドは、そのままアコースティックと置き換えて構わない。
アンプラグドだからこそ、歌い手の実力が問われる訳だが、そうした点から庄野真代の歌の実力は合格点。歌い手も聴き手も、十分、成熟したということかも。

コンサートは、庄野真代のほか、ブリキおもちゃのコレクターの北原照久さんや、震災後、チーム4030を結成し、石巻・南三陸町・釜石の復興支援にあたっている塩澤好文さんなど、多士済々の皆さんがそれぞれの表現方法で、震災支援の想いを形にして、観客に伝えた。
コンサートの締めは、「翼をください」。出演者と会場が一帯となって、復興支援の想いを歌声にのせた。
僕も思いっきりの声で歌った。そう、自分にできることを実行することが大事と、このコンサートで感じたからね。

塩澤さんは飯田市の出身で、現在は東京・築地で、紙の専門商社「シオザワ」を経営している。
なにかの縁なのかもしれない。東京時代にお世話になったデザイナーが、この会社で段ボールの家具や遊具の企画をしていて、僕は何度か、シオザワのオフィスを訪ねたことがある。

「ダンくらふと」
http://www.shiozawa.co.jp/eco/hpkousin/danc/dankurafuto.htm
この縁の底流に流れているのは、支援の想い。旧くて新しい出会いがこれからもありそうだ。
チーム4030って、シ・オ・ザ・ワ。なのね
復興支援のチャリテリーコンサートに、国境なき楽団の、庄野真代がやってきた。
庄野真代といえば、「飛んでイスタンブール」。1978年のヒット曲であり、30年近く前のことがあるが、鮮明な記憶の中にある。
コンサートは、アコースティック・ギターだけの演奏で、「中央フリーウェイ」、「異邦人」そして「飛んでイスタンブール」の3曲。
僕らの世代の「懐メロ」的な楽しみ方は、この「アンプラグド」だな。アンプラグドは、そのままアコースティックと置き換えて構わない。
アンプラグドだからこそ、歌い手の実力が問われる訳だが、そうした点から庄野真代の歌の実力は合格点。歌い手も聴き手も、十分、成熟したということかも。
コンサートは、庄野真代のほか、ブリキおもちゃのコレクターの北原照久さんや、震災後、チーム4030を結成し、石巻・南三陸町・釜石の復興支援にあたっている塩澤好文さんなど、多士済々の皆さんがそれぞれの表現方法で、震災支援の想いを形にして、観客に伝えた。
コンサートの締めは、「翼をください」。出演者と会場が一帯となって、復興支援の想いを歌声にのせた。
僕も思いっきりの声で歌った。そう、自分にできることを実行することが大事と、このコンサートで感じたからね。
塩澤さんは飯田市の出身で、現在は東京・築地で、紙の専門商社「シオザワ」を経営している。
なにかの縁なのかもしれない。東京時代にお世話になったデザイナーが、この会社で段ボールの家具や遊具の企画をしていて、僕は何度か、シオザワのオフィスを訪ねたことがある。

「ダンくらふと」
http://www.shiozawa.co.jp/eco/hpkousin/danc/dankurafuto.htm
この縁の底流に流れているのは、支援の想い。旧くて新しい出会いがこれからもありそうだ。
チーム4030って、シ・オ・ザ・ワ。なのね